2011年8月30日火曜日

定子の死について


前の記事で、定子のお墓について書いたけど……定子の人生と、その死にあたって、どれほど清少納言が、そして一条天皇が悲しんだか、『枕草子』の「裏側の物語」を知っている人は、多分、それほどいないのではないか。

もちろん、平安時代の文学や歴史が好きなら大体は知っているだろうけど、それにしても細かい日付や出来事まではどうだろう。私は『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』(山本淳子)を読んで初めて知った。個人的なメモとして、「定子の死」についてまとめておく。



定子の死

中宮定子は長保二(1000)年12月16日未明、一条天皇の三人目の子どもを出産直後に亡くなった。

長徳の政変(996)で兄伊周(これちか)が失脚し、定子が実家の後ろ盾をなくしてから三年半。一条天皇は権力者の藤原道長とその娘の彰子に気を遣いながらも、落ちぶれた定子を愛し続けることをやめなかった。定子が最後に内裏に上がったのは、同年八月の約二週間。それまでと同じように、彰子が里帰りした隙に一条が妊娠六カ月というケガレの身の定子をあえて呼び寄せた。結果的にはそれが二人の最後の逢瀬になった。

定子が亡くなった夜、一条が発した慟哭の言葉を藤原行成が日記(『権記』)に書きとめている。「皇后の宮、すでに頓逝すと。甚だ悲し」。(GJ、行成!)

定子はこのとき死を予感していたらしく、三首の歌を残していた。

「よもすがら契りしことをわすれずは 恋ひん涙の色ぞゆかしき」
『枕草子』にも、定子と一条が仲睦まじく御帳台に籠っているシーンがあるけど、14歳の定子が11歳の一条に嫁いでから11年間。一晩中愛をささやきあった夜もたくさんあるだろう。一条が必ず泣いてくれることを知っていて、その血の色の涙を見たいとうったえている歌。

「知る人もなき別れ路に今はとて 心細くも急ぎたつかな」
この世と別れ、知る人もいない死の世界へ、心細いけれど、急いでもう旅立たなくてはなりません。死後の世界には父も母もいるはずなのに、「知る人もなき」と言うところに、定子の感じている孤独が表れている。死ぬ前にひと目、一条に会いたかっただろうが、叶わぬことだった。

「煙とも雲ともならぬ身なりとも 草葉の露をそれと眺めよ」
私は煙にも雲にもなることはありません、でも草の葉に下りた露を私と思って見てください。

謎めいた歌。当時、お産で亡くなった女性は成仏できないという俗信があった。定子もそれを知っていただろうが、“いいえ、わたしは雲の上の世界には行かずに、この世にひっそりと留まって、夫と子どもたちを見守りたい”と思ったのかもしれない。

伊周は、最後の歌を「定子は火葬を拒んでいる」と解釈し、定子の亡骸は土葬されることになった。当時の土葬は現在のように地に埋めるのではなく、「霊屋(たまや)」と呼ばれる建物を造り、そこに棺を放置する方法をとる。定子の霊屋は鳥辺野に建てられた(現在宮内庁が管理している場所と同じとは限らない。正確な場所はもはや不明)。

葬儀は12月27日、降りしきる雪の中で行われた。一条は天皇という地位に縛られて、参列できなかった。



それから11年後の寛弘八(1011)年。
一条は三十二歳で危篤の床にあった。6月21日の夜半、目覚めた一条は最後の歌を詠んだ。

「露の身の草の宿りに君を置きて 塵を出でぬることぞ悲しき」(五つの資料で少しずつ語句が異なる)

行成はこの歌を「定子に寄せたものだ」と日記に書き残した。

一条は数日前に出家している。当時の信仰に従い、後生で成仏できるように。しかし、それが悲しく、気がかりだという。なぜなら、十一年前に亡くなり、現世の「草の宿り」に「露の身」となって留まっている定子を置いていくことになるからだ。思えば、長徳の政変で出家を試みた定子を還俗させて愛し続けたのも一条だったし、お産で死なせたのも一条に原因があると言えないこともない。それなのに、彼だけが出家を遂げ、塵の俗世を捨てていこうとしている、それをすまないと死の間際に思ったのである。

この歌が本当は誰にあてたものだったのか、今となっては永遠に分からない。しかし、側近の行成がとっさに思い出すくらい、傍から見ても、一条と定子の絆は深かったのだろう。この時代には非常に稀な、二人の「純愛」は、『源氏物語』にも影響を与えた。とくに桐壺、紫の上、宇治の大君たちの愛の物語には、一条と定子の影が垣間見える。


定子と一条の物語について興味を持ったら、『源氏物語の時代』がおすすめ。
文中の写真は京都御所の清涼殿です。

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枕草子9Pまんがを描きましたー



現代語版もあるよ!

2 件のコメント:

  1. 定子の「よもすがら…」は大好きな和歌です。要は「愛していると囁いていたから、私が死んだときは、中国の言い伝え通り、血の涙を流すのでしょう?」の意味ですね。これは、好きあった男女の戯言です。人が血の涙を流さないことは常識として知り、相手の絶望を当然視したうえで、甘えたように相手の行動の責任を追及しています。
    ただ、この会話の時点で自分が死んでいること事を認識する、定子には生への諦めがあったのでしょう。死を前提とした、恋人への甘えの歌と思います。

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  2. コメントを拝見し、久しぶりに『源氏物語の時代』を読み返して、楽しみました。
    古い記事に目をとめていただき、ありがとうございました。

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