定子のお墓に行ったときのこと


もうひと月も前になるけど、京都を旅行して、定子のお墓を詣でた。定子定子と書くと友だちみたいだけど、『枕草子』の作者・清少納言が仕え、一条天皇のお后だった中宮定子のこと。

京都に向かったのは、例の急に進路を変えた台風のときで、移動のあいだに台風とはすれ違ったらしい。京都ではずっと曇りだった。蒸し暑かったけど、何しろ夏の京都だから相当な酷暑を覚悟していたので、日射しがないだけで十分ありがたかった。



さて、定子が埋葬されたのは、鳥辺野陵という場所である。歩いて数分という近距離に、清少納言のお墓……はないものの、彼女が晩年を過ごしたと伝えられる月ノ輪と云う土地があり、泉涌寺が建つ。


鳥辺野陵は東福寺駅から歩いて行った。今では近くまで家々が立ち並んでいるけど、やはり京都の中心からはだいぶ離れたところにあると思った。現在の千本丸太町付近にあったという大内裏からすれば、相当な郊外にあたるはず。


今回の旅はガイドブックを持たなかったので何処へ行くにもスマートフォン頼み。しかし、鳥辺野陵のGoogle Mapの地図は単純で、どこに上り口があるのか分からなーい! 道端でしばし、立ち止まって、過去に訪れた人々のブログなどを検索してようやく判明。先達はあらまほしきものなり。

ポイントは、こんもりした緑の丘に沿って、道路がぐいっとカーブする直前で、藤棚(?)のある少し下った細い路を入ること。そこをまっすぐ進むと左側に「鳥辺野陵参道」という石碑と階段が表れる。


宮内庁管轄の石畳の小道はよく手入れされている。小道を登っていくと、突き当たりに白砂の立ち入り禁止区画がある。「一條天皇皇后定子 鳥辺野陵」と墨字で書かれた古めかしい看板と、コンクリート製の鳥居が森(林?)のほうを向いて建つ。

定子は厳密にこの地点に葬られたわけではないが、今では正確な場所を特定できない。遺言により鳥辺野周辺に土葬されたことは確かなので、どこかこのあたり、としか言いようがない。


昔、火葬場だったと思って、周囲を見てみるが、暗くておどろおどろしい感じはしない。白砂のせいか、京都の寺社でよく感じる、しんとした清浄な空気が漂っているように感じる。街のざわめきが遠く、蝉の声がうるさかった。


鳥辺野陵の参道でかたつむりを見つけて、珍しくて、ちょっとつまんでしまった。かたつむりなんて、何年ぶりだろう??? 東京で、意外に自然から遠ざかった生活をしていることに気づく。


泉涌寺の敷地は広く、緑も深い。朝早かったので人通りもほとんどなく静か。鳥辺野陵からは歩いて十分ほどしか離れていない。黒々とした仏殿の隣に立って目を上げると、木々に覆われた陵(みささぎ)が目に入る。


泉涌寺の場所には清少納言の父、清原元輔の山荘があったと伝えられ、清少納言は定子の墓を間近に拝するこの月ノ輪の地に隠棲したらしいが、納得できる距離だった。


清少納言の墓はないが、苔むした一角に「夜をこめて鳥のそらねをはかるとも……」の歌碑がある。ここの樹の幹にもかたつむりがいた。枕草子に「でんでんむし」が出てくる章がなかったかどうか考えたけど、思い出せなかった。


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