2017年4月22日土曜日

パワーについて(映画『海よりもまだ深く』と『JOY』感想)

飛行機で見た二つの映画、日米の「パワー」についての描かれ方が正反対で面白いなー、と思ったので、感想を書きました。


ちなみに前回は、『信長協奏曲』と『スター・トレックBeyond』について書いたのですが、この二つの映画は一見ぜんぜん違うけどテーマは共通していて、それは「平和」ということじゃないか、という感想でした。
平和とパワー(『信長協奏曲』と『スター・トレックBeyond』)


今回の『海よりもまだ深く』と『JOY』は、日本とアメリカ、男と女の差はあるけど、主人公の状況がよく似ていて、そして、結末が正反対です。Twitterに書いたときは、アメリカ映画をほめるような書き方になってしまったのですが、日本人には日本人の「パワー」がある気がしてきたので、公判で追記しておきます。

あくまで、どちらがいい、悪い、というものではないので、そこは誤解なさらず!

こんなこと息子に言われてしまうのって、父親として切ないですよねー。
でも、ジョイのように娘に謝らなきゃいけないのもツライよなぁ……と思いました。




子どもの頃に思っていたのとは違う人生


『海よりもまだ深く』と『JOY』、二つの映画の主人公に共通する要素は、「子どもの頃に思っていたのとは違う人生を送っている」。


共通点
・若い頃に夢があったがかなわずにいる
・離婚して子どもがいる(その子のことは可愛がっている)
・親も、自分と同じように、夢の叶わなかった、鬱屈した人生を送っている


『海よりもまだ深く』の主人公、阿部寛演じる良多(りょうた)は、若い頃に文学賞を取ったものの、鳴かず飛ばずで、いまはリサーチと称して探偵事務所で違法すれすれな仕事をしてるダメ男です。
高校生を脅迫したり、利益相反行為をして小銭を稼いでます。おぃ……。

離婚して息子が一人いますが、母親に養育権があり、ひと月に一度会えるのを楽しみにしています。しかし、息子の欲しいスポーツシューズも定価では買ってやることができず、店内でわざと汚して店員にいちゃもんをつけて安くさせるようなことをせざるをえない、情けない状態。

樹木希林演じる良多の母親は、古い団地に一人で暮らし。亡くなった夫もやはり、いまの良多のようなダメ男でした。この団地は、住み始めてから一度もリフォームしていないのか(?)お風呂やキッチンなど、驚くほど古いまま。『耳をすませば』の月島雫の団地がさらに二十年経ったといえば伝わるでしょうか。懐かしいと感じる人もいるかもしれないけど、とくに思い入れを持たない人は……ひええ~、どうでしょう。監督はこの清瀬市の旭が丘団地を撮りたくて、映画を作ったそうですが……。

とはいえ、母親はその古い団地で、豪邸を夢見ながらも、それなりに忙しく楽しそうに暮らしています。この暮らしの描写は、とてもリアルでよかった。団地のさまざまな映像は、将来、資料的価値を生みそうなくらいです。
カルピスを薄めて凍らせたアイス(冷凍庫に長い間入れすぎてカチカチになっている)のシーンなど、チープで懐かしいのか、貧乏くさくてゾッとするのか、よく分からない味わいがあります。

団地だけではなく、主人公の年をとってから落ちぶれた「ワル」っぷりも、一昔以上前のような「懐かしさ」があります。
いまの時代なら、こんな男性があんな美人で上品な女性とはそもそも結婚できないんじゃないかと(失礼)。

中学生の息子さんは、健気ないい子です。すでに「お父さんのようにはなりたくない」と思ってます。実は、良多も昔、自分の父親に対して同じように思っていたんですが、結局はいま、母親や姉にお金をせびるなど、父と子が同じことをしているんですね。
そんな父親(良多)の人生を見ている息子さんは、「どうせ夢はかなわない」という信念も形成しつつあります。こんなふうにして心理学でいう"人生脚本"が親から子へ受け継がれていくんですね。切なさがあります……。

日本映画なので、この物語は「何かが起こるようで、起こらない」。淡々と日常の時間が流れ去っていくだけで、終わってしまいます。

いちおう、大きな台風が来て、元奥さんと息子が古い団地の家に一晩泊まります。これね、自分が彼女だったら絶ッ対に耐えられないし、どんなことがあっても自分一人ででも帰るだろうと思うのですが、この元奥さんは、別れた夫の母親にもやさしく敬意を持って接し気遣うことができる、絶滅危惧種のようによくできた女性なのです(はっきり言って、早くあの裕福で誠実そうな男性と再婚すべきである)

さまざまな断片的な会話が交わされますが、台風一過の朝にも、この元・家族たちの状況は変わりません。
質屋が主人公の著書にサインをねだるなど、かすかな希望のような描写がありますが、それだけです。まさか、あの宝くじが当たるとも思えませんし。

無力感の美学


この映画は、こういうことを言っていると思いました。

「自分の夢をかなえる力、
自分の人生を思うように切り開いていくパワーは、
普通の人間は、誰も持っていない。
むしろ、そういう力を持たずに、人生に翻弄され、流されて、
ある意味、不本意な状況に甘んじながら、
それでも、かすかな希望をたよりに懸命に生きていく、
それこそが人生なのだ……」

パワーを持っていないことのやるせなさを、「美学」として昇華しようとしている、といいますか。

もちろん映画の見方は様々なので、「この映画はそういう映画じゃない。家族の映画なんだ」などの意見もあるかと思いますが、あくまで個人的な感想ということで。
でも、監督が脚本の1ページ目に「みんながなりたかった大人になれるわけじゃない」と書いたように。それから、台風の晩に母親がつぶやく大事な人生訓から考えるに、やはりこれは、「パワー」の裏返しである、「無力感」を描いた映画ではないかと思うのです。


人は自分の中にあるものを、外に見出して、「面白い」と思ったり、惹きつけられたりするもの。
私はこういう「無力感の美学」にあまり感心がなくて、淡々と見て、「ふーん」で終わってしまったのですが、他の人はもっと共感したり、惹かれたりするのではないかと思います。今現在、自分の中にそういうテーマを抱えている人は。




一方で、『JOY/ジョイ』。

日本では劇場公開されずビデオスルーになった映画です。
ただ、確かに日本ではあまり受けないテーマかな、と。
『海よりもまだ深く』とセットで見た私は、面白くて、笑ってしまいそうになりましたが。

逆に言えば、『海よりもまだ深く』みたいな「無力感」がテーマのストーリーは、アメリカでは絶対受けないだろうなー、とも思いました。

アメリカにも、「人生は思い通りにならない」=「無力感」がテーマの作品は、もちろんあると思いますが、ただそれは、主人公に意思や行動があった上で、それでも人生の運命に負ける、という形を取るのでは。主人公に強い意思もなく、大したアクションも起こさず、したがって、何事も起こったようで起こらないストーリーはまず作られないし、誰も見ないのでは?
いい、悪いではなく、これが大衆の好みということですよね。



『JOY』は、「パワー」の物語


ここでいう「パワー」とは、政治的な権力ではないです。もちろん軍事力でもない(笑)。
普通の人が、自分の人生を切り開いていく力、といいましょうか。

この映画は、その力を実際に使ったとき、どんなことが起こるかについての古典的な、そしてアメリカ的な物語だと思います。

『JOY』のテーマが「パワー」であることを明確に示しているのは、冒頭の子どものころのシーン。幼いジョイが、切り抜いた紙で家や動物を作って遊びながら、「私にはパワーがあるの」とはっきりつぶやきます。

「私は自分の人生に望むものを作り出すパワーを持っている……」

しかし、その直後、ジョイは紙細工を壊されて、大泣きしてしまいます。このとき、彼女は自分のパワーを封印したのです。

そして、月日は流れ、生活に追われるシングルマザーになっているジョイ。母親はテレビばかり見ていて家事をやらず、離婚した父親や元夫もぐだぐだで、ジョイはみんなを養うために一生懸命働いています。

冒頭はイライラするコメディのような感じです。ジョイに協力的な人間が、実の娘以外ぜんぜんいない。元夫は物語が進むにつれ、いい奴になっていきますが。

テレビの前から動けないジョイの母親はなかなか面白くて、自分の人生を生きる(たとえ、ジョイのように自分の意思で切り開いていかなくても、少なくともリアルも世界を“生きる”)ことから逃避している人間の見本なのかなと思いました。テレビドラマという、他人が作ったコンテンツに浸っていることしかできない。憎めない人だし、ジョイは最後まで母親を大事にするんですけど。

ロバート・デ・ニーロ演じる父親もいい人なんですけどね。頼りにならないだけで……。

さて、ジョイは自分のパワーを封印した瞬間の記憶をよみがえらせて、自分が本当は発明が好きだったことを思い出します。そこから「パキッ!」と人生を変える決心をするのは、すごくかっこいい。このスピード感。
そして、「手を濡らさないで絞れるモップ」を開発し、世間に広めることに成功しますが、本当の苦労はそこから始まります。

まず、家族を含めて、周囲がいかに夢の実現を邪魔するかという。

腹違いのお姉さんは、「嫉妬する人間」の典型に見えました。ジョイと自分を比べてしまって、羨ましくてしょうがないのですね。「自分もそれくらいできる」、「自分のほうがビジネスの経験がある」と勝手に競争して、結局はジョイを窮地に陥れる。もちろん、お姉さんもお姉さんなりの「パワー」を持っているけど、それはお姉さん自身の人生を生きるために使う力なんです。それなのに、妹と自分を比較してばかりで、大事なことがよく分からなくなっているように見えました。

一方で、「こんなに都合よく話が進むの?」という、ラッキーな大企業の幹部との出会いもあります。もちろん、ジョイは胃の痛くなる思いをして売り込みに行くわけですが。ただ、こういうことは、成功した人の自伝にはわりとよくある出来事で、方式化している人もいるくらいですが。
つまり「パワーを使う」という決意をし、それを真剣に持ち続けると、尋常ではない幸運が舞い込んでくることがあるわけです。

それにしても、何度も訪れる失望に次ぐ失望、すべてを失って莫大な負債を抱えるかもしれないというクライマックスでは、見ているほうも辛くなりました。家事と育児に追われるシングルマザーでも、あのままの日々を続けていたほうがまだしもよかったんじゃないか、小さな娘にこんなつらい思いをさせるくらいなら、「パワー」を使う決意なんてしなくてよかったんじゃないか、とすら思いました。

最後に、ジョイが成功の象徴として豪邸を買うところは、いかにもアメリカ的。実在する成功者の伝記をもとにしたのだから仕方がないとはいえ、やっぱり全体的に時代が古いなぁ、とも感じます。
今は、成功の道のりの途中で、必ずしも苦労をしょい込まなくてもいい、もっと、らくらく進む時代だと思いますし。


まとめ


アメリカが成功の物語を好むからといって、無力感がないかというとそんなことは全くないと思います。去年の大統領選だって、無力感と絶望から「とにかく変えてほしい!」と投票した人がかなりいたんじゃないかなー。
ひょっとすると、過剰なポジティブさは、強烈な無力感を抑圧している部分があるのではないか、なんて……うがった見方でしょうか。

一方、日本は自然災害が多くて、戦争さえ天災とあきらめてしまう人もいるくらいで、「無力感の美学」みたいなテーマは伝統的に受けそうな気がしますが、それも最近はどうだろう。これはアメリカや日本にかぎらないですが、世界中で長いトレンドなのは、

結局、みんなパワーを持ちたがっている……。

ということ。
みんな、というのは、実際に権力を持っている政治家などではない普通の人たち、庶民、市民、国民のことです。

・ある人は、労働者としてのパワーを求め(→残業規制や、最低賃金の問題にフォーカスする)
・ある人は、市民としてのパワーを求め(→政治家や行政の透明度、情報公開、誠実さを追及する)
・ある人は、消費者としてのパワーを求め(→企業が産地偽装など不誠実なことすると糾弾する)
……

というように、自分が関心のある分野で、それぞれが「真っ当なパワー」を取り戻そうとしているような気がしてなりません。

ようするに、「自分たちをちゃんと扱ってほしい」、「自分たちの声を反映してほしい」、あるいは、これまでは偉い人たちが決めたらしかたないと従ってきたのが、今はすでに決まった事柄でさえ、「どうしてそうなったのか、ちゃんと知りたい。説明してほしい。勝手に決めないで欲しい」と、声を上げるようになってきました。しかも、それが実際に取り上げられるようになってきた。

世界だけでなく、日本の出来事、たとえば新国立競技場や、豊洲移転に至るまで、少し引いて眺めると、大きなうねりというか、トレンドのようなものを、複数の分野に感じます。根っこはつながっていると思います。意見の違いはあれ、ものを言うというのは、「私たちにはパワーがある」と言っているので。

「パワー」という言葉は、ある種、時代のキーワードだと思う。「パワーは私たちにある」。もちろん国民主権だからそれは当然ですが、本当に大勢の人が心からそう言い始めたとき、古いもの(不誠実さや、隠しごと)は変わっていくと思う。




もちろん「平和」も、21世紀のキーワードですが。



私たちは、一人ひとりがもっている「パワー」をどうしたいのか?
少なくとも、私は自分の「パワー」を誰か他人にゆだねたいとは思いません。