2016年7月30日土曜日

箸墓古墳の発掘調査もよろしくお願いします♪

三輪山登拝記(大神神社、狭井神社)
三輪山登拝記その2(奥津磐座)
の続き。

カカシの久延彦さん神社に寄って、箸墓古墳に向かいました。

箸墓古墳は、古墳時代の始まりを告げる、とっても重要な巨大古墳です。公式には「倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)」の墓ですが、卑弥呼の墓ではないかと考える人もいます。まだ内部の本格的な発掘調査は行われていませんが、未盗掘の埋葬施設が残っている可能性もあるそうです。
邪馬台国から大和政権への移行期について何か分かるかもしれません(^-^)
いつか学術調査を実現していただきたいものです♪

本当は檜原(ひばら)神社に寄ってから、ここに来るはずだったのですが、足が疲れていたので断念。


(箸墓古墳パノラマ)

三輪そうめんの後、近くの神社へ。
大神神社でもらえる、「大神神社境内案内図」が、分かりやすかったです。


まず、大直禰子(おおたたねこ)神社へ。
だれよ?という感じですが、古事記に、

この崇神天皇の御世に、流行病が盛んに起こって、人民が死に絶えようとした。
(中略)
その夜、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が(崇神天皇の)御夢の中に現れて、「流行病が起こったのは、わが意志でやったことである。だから、わが子孫の意富多多泥古(おおたたねこ)をもってわれを祭らせるならば、神の祟りも起こらなくなり、国もまた以前のように平安になるだろう」と神託を下された。(小学館完訳日本の古典1 古事記 萩原浅男訳)

この、おおたたねこさんは、河内の美努村(みののむら)にいるところを探し出されて、三輪山の最初の神主になったのですね。


入口に、大きなおだまき杉の根元がありました。

猫が昼寝する道をぶらぶら歩いていくと、


あった、あった。

大国主神が出雲の美保の岬にいらっしゃるとき、波の上をガガイモの実でつくった舟に乗って、蛾の皮を丸剥ぎに剥いで、それを衣服にして、近寄ってくる神があった。
そこで、その名を質されたけれども、その神は答えなかった。
またお供の神たちにお問いになったが、みな「知りません」と答えた。
ところがヒキガエルが、「これは案山子(かかし)の久延毘古(くえびこ)なら、きっと知っておりましょう」と申したので、すぐに久延毘古を呼んでお尋ねになると、久延毘古は「この神は神産巣日神(かみむすひのかみ)の御子の少名毘古那神ですよ」とお答え申し上げた。(小学館完訳日本の古典1 古事記 萩原浅男訳)

だから、知恵の神様なんですね~。
少名毘古那神、その親の神産巣日神といえば、出雲で行った命主社を思い出しますね。

……。

しかし、三輪山で体力を消耗しすぎて、この神社に通じる階段を上るのさえ、足がつらい(笑)


向かって右手に、三輪山の遥拝所がありました。


狭井神社からも来ることができて、途中にある展望台は眺めがいいそうです。


でも、久延彦神社からも、こんな景色。

この日は何も見えなかったけどね。


撫でるとご利益がある、知恵ふくろう。愛嬌がある顔つき。


また二の鳥居まで戻り、さらに電車の駅も通り越して歩くと、巨大な一の鳥居。

駐車場はこのあたりにあるようです。


もうちょっと何か食べたいな~、などと思いながら、大きな通りを右に折れて、ひたすら歩く。


このあたりは、どこからでも見えますね。

平成9年の台風の風害で、三輪山頂上付近の杉の巨木が多数倒れ、山頂の見晴らしが良くなったそうです。この日は分からなかったですが、奥津磐座も見えるのかもしれませんね。


住宅街の前方に、森が、と思ったら。


古墳の側面に出ました。
お~大きい!
森に沿って歩いていくと、田んぼの中に小道があり、


入っていくと、


おお、あった!

座って、少し休憩。さすがにこの天気だからか、誰もいなかったです。
ここを通り過ぎて、草の中のちょっと不気味な小道を進み、池側に出ます。


池の周りは、ちょうど草刈りしてくれたところで、歩きやすかったです。



絵に描くようなテントウムシがいました。かわいい。


東京近郊は昆虫をあまり見ないんですよね。

カタツムリ、トンボ(よくいるはずの赤とんぼやギンヤンマでさえ)、テントウムシ、大きくて立派な蝶、どれもわりと貴重です。



このあと、JR巻向駅まで歩いて、20分くらいぼんやりホームで待っていて、帰りました。

曇っていても、蒸し暑くて、また汗をかいたけど、楽しかった!



この付近の纏向遺跡も、興味深い遺跡です。

一冊本を読んだだけですが、
「これまで何もなかったところに突然大規模にできた」
「弥生時代が終わり、銅鐸が埋納される頃に突然できた」
「日本各地の土器が出る(それだけ日本各地の人が集まって滞在していた?)」
「田んぼや畑など農業の痕跡が見られない」など。

時代的にも、邪馬台国の都だったのではという人もいます。それはまだ分かりませんが、やはり何らかの政治的連合があり、その「都」という感じはします。

また、時代が下れば、箸墓古墳の学術調査も実施されるでしょうし、分かってくることがあるかもしれません。楽しみに待とうと思います。

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