やりがいの場所
台風12号、東京はあっという間に抜けましたね。
被災地に降る雨が強くならないといいのですが。
東から西に向かう台風って変な感じ。
ところで。
会社をやめて何年も経つんですが、まだ前の職場の夢を見ることがあります。
今日はちょっとその話。
*
夢日記によると、最近見たのは去年の12月30日かな。
一~二年に一度見る気がします。
前の会社には五年くらいいたんだけど、夢に出てくるのは不思議なことに、「最初に配属になったチーム」だけ。
それと、昔のオフィスがそのまま出てくるとか、
昔の一場面とか、そういうのはまったくありません。
いつも、すごくへんな場所、どこかの教室だったり、未来的な、白っぽいコワーキングスペースみたいなところが夢の舞台です。
(今回はそのイメージでイラストを描いてみました)
話の筋もとりとめがなくて、ただ、メンバーの誰かが出てくるので、「ああ、あのチームにいたときか」と分かります。
会話も覚えていることは少ないんだけど、2017年12月30日に見た夢は、ある女性に、最近どう? というようなことを聞かれて、自分は、
「いやー、漂流するばかりだよ」
と、答えてました。
表層的な意識ではそんなこと思っていなかったので、目が覚めてから、「そうか、私は漂流しているのかw」と思いました(分からないでもないが)
その後、Twitterである方のつぶやきを読んで、思ったのですが……。
たぶんですが、これまでの職歴で、ちょっと大げさに言うと、一番「やりがい」を感じていたのが、あの最初のチームの頃だったのかもしれないと。
「やりがい」という言葉が適切かどうかは分からないけど。
当時はけっこう大変、と感じていました。
自分の能力を超えるソースコードだったし、会社に入ってすぐの配属で「役に立つようにがんばらないと」と焦っているところもあった。
同期の中途入社の人たちと、「新卒の子たち、めちゃくちゃ優秀ですよねー!」「(ソースコード)見たとき絶望しました……」とか、ランチで話し合っていたのがなつかしいw
その後、チームは何度も変わって、他のサービスも担当して、どこも楽しかったけれど、それは夢に出てくることはないです。
それは、会社にも慣れて、「自分の能力でこなせること」しか、やっていなかったからかな……という気もします。新しいことにもチャレンジしようとしたはずだけど、私の無意識には、そう認識されていなかったのかもしれません。
自分というのは、欺けないものです。
去年の12月30日の夢を考えていて、気づいたのは、
「やりがいというのは、自分の能力を精一杯使っている状況」
かもしれないなー、と。
もちろん「やりがい搾取」は御免こうむりたいけど。
ただ、「その中にいるときは、大変と感じるくらいのとき」が、実は「やりがいの場所」にいる、ということなのかもしれない。
私はいま、かなり理想的な*人生を送っているけど、どこかでもっと「やりがいの場所」を求めているのかもしれない、と思いました。
(*正確にいうと、二十代前半のころに夢見た状況が、思ったのとは違う形で、しっかり実現されたって感じです)
ときどき、高い地位について何の不足もない報酬を得ている人が、その場所を飛び出して、まったく新しい会社や事業に入っていくことがありますよね。それもやっぱり、「やりがいの場所」を求めているからかなぁ、と。
「やりがいの場所」は、ある人にとっては、心から切望するものなのでしょう。「生きているという感覚」が、そこにあるんじゃないな。
……というようなことを、2018年のお正月くらいに考えてました。
そして、まあ、今年の目標は「次の「やりがいの場所」を見つけること」だな、と思っていたんです。
(念のためだけど、実際に会社や前のチームに戻りたいわけではありません。もちろん、戻れるわけもないし。
夢に出てくるのは「象徴」。そのものではなく、それが指し示しているもの、つまり、抽象的な感情、「やりがいの場所にいるという感覚」を求めているのであって、夢に出てきた、そのものではないです)
……そして、2018年も半年くらい経って、また思うことがありました。
「やりがいの場所」というのは、具体的な職場とか、そういうものではないんだな、と。
いや、職場がそれに繋がっているなら、もちろんそれでよし、だけど。
ただ、それは、自分の外部に求めるものではない、他人や外部の環境が「(やりがいの場所を)与えてくれる」ものではない。あるいは「与えてくれない」と不満に思うものでもない。
そういう受け身の何かではなく。
「やりがいの場所」は、結局は自分の中にあるんだな、と。
というより、その本質は、自分の中から湧き上がってくる感情。
生きていることが、(いい意味で)緊張感があって、ワクワクして、素晴らしい、というようなトーン。
日常のささいな事柄にも、この抽象的な感情を入れていくことができる。
仕事でも、生活でも、趣味でも。
じつは、生きている間中、この「やりがいの場所」を感じ続けることもできる。
ということが、最近急に分かった気がしました。
それじゃ、
「大変と感じるくらいのときが、「やりがいの場所」にいる」
という話はどこに行ったかと言うと、それも間違いではないけど、今の時代、それは積極的に選ばなくてもよくなった気がするのです。
もちろん、人によってどういう経験をしたいかは異なるので、「大変」とか「苦労」とか、多少の抵抗があったほうがやりがいを感じられる、ということもあるとは思いますが。
自分の能力を精一杯発揮しなくていいとか、今の状況を変えなくてもいいということでもなく。
ただ、「今この瞬間も、それを感じつつ、同時にもっとそれを感じたいと思う」ことは矛盾がないということです
現時点(7月の終わり)で、2018年の目標について思っていることを書いてみました。
ところで、これまでの経験から言うと、夢の意図に気がついて、受け止めると、同じ夢は見なくなることが多いですね。
まあ、まだ分かりませんけど、あれ以来、同じような前の職場の夢は見なくなりました。
*
「#2.0的なもの」タグをつけたのは、これからますます多くの人が、食べるためだけに仕事をするのではなく、人それぞれの「やりがいの場所」、その、感情のトーンを求めて、仕事でもいいし、何かをするようになるんじゃないかな、と。
そうなったらいいな、という思いをこめて。
お読みいただきありがとうございました。
明日もきっとよい日です。
被災地に降る雨が強くならないといいのですが。
東から西に向かう台風って変な感じ。
ところで。
会社をやめて何年も経つんですが、まだ前の職場の夢を見ることがあります。
今日はちょっとその話。
*
夢日記によると、最近見たのは去年の12月30日かな。
一~二年に一度見る気がします。
前の会社には五年くらいいたんだけど、夢に出てくるのは不思議なことに、「最初に配属になったチーム」だけ。
それと、昔のオフィスがそのまま出てくるとか、
昔の一場面とか、そういうのはまったくありません。
いつも、すごくへんな場所、どこかの教室だったり、未来的な、白っぽいコワーキングスペースみたいなところが夢の舞台です。
(今回はそのイメージでイラストを描いてみました)
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話の筋もとりとめがなくて、ただ、メンバーの誰かが出てくるので、「ああ、あのチームにいたときか」と分かります。
会話も覚えていることは少ないんだけど、2017年12月30日に見た夢は、ある女性に、最近どう? というようなことを聞かれて、自分は、
「いやー、漂流するばかりだよ」
と、答えてました。
表層的な意識ではそんなこと思っていなかったので、目が覚めてから、「そうか、私は漂流しているのかw」と思いました(分からないでもないが)
その後、Twitterである方のつぶやきを読んで、思ったのですが……。
たぶんですが、これまでの職歴で、ちょっと大げさに言うと、一番「やりがい」を感じていたのが、あの最初のチームの頃だったのかもしれないと。
「やりがい」という言葉が適切かどうかは分からないけど。
当時はけっこう大変、と感じていました。
自分の能力を超えるソースコードだったし、会社に入ってすぐの配属で「役に立つようにがんばらないと」と焦っているところもあった。
同期の中途入社の人たちと、「新卒の子たち、めちゃくちゃ優秀ですよねー!」「(ソースコード)見たとき絶望しました……」とか、ランチで話し合っていたのがなつかしいw
その後、チームは何度も変わって、他のサービスも担当して、どこも楽しかったけれど、それは夢に出てくることはないです。
それは、会社にも慣れて、「自分の能力でこなせること」しか、やっていなかったからかな……という気もします。新しいことにもチャレンジしようとしたはずだけど、私の無意識には、そう認識されていなかったのかもしれません。
自分というのは、欺けないものです。
去年の12月30日の夢を考えていて、気づいたのは、
「やりがいというのは、自分の能力を精一杯使っている状況」
かもしれないなー、と。
もちろん「やりがい搾取」は御免こうむりたいけど。
ただ、「その中にいるときは、大変と感じるくらいのとき」が、実は「やりがいの場所」にいる、ということなのかもしれない。
私はいま、かなり理想的な*人生を送っているけど、どこかでもっと「やりがいの場所」を求めているのかもしれない、と思いました。
(*正確にいうと、二十代前半のころに夢見た状況が、思ったのとは違う形で、しっかり実現されたって感じです)
ときどき、高い地位について何の不足もない報酬を得ている人が、その場所を飛び出して、まったく新しい会社や事業に入っていくことがありますよね。それもやっぱり、「やりがいの場所」を求めているからかなぁ、と。
「やりがいの場所」は、ある人にとっては、心から切望するものなのでしょう。「生きているという感覚」が、そこにあるんじゃないな。
……というようなことを、2018年のお正月くらいに考えてました。
そして、まあ、今年の目標は「次の「やりがいの場所」を見つけること」だな、と思っていたんです。
(念のためだけど、実際に会社や前のチームに戻りたいわけではありません。もちろん、戻れるわけもないし。
夢に出てくるのは「象徴」。そのものではなく、それが指し示しているもの、つまり、抽象的な感情、「やりがいの場所にいるという感覚」を求めているのであって、夢に出てきた、そのものではないです)
……そして、2018年も半年くらい経って、また思うことがありました。
「やりがいの場所」というのは、具体的な職場とか、そういうものではないんだな、と。
いや、職場がそれに繋がっているなら、もちろんそれでよし、だけど。
ただ、それは、自分の外部に求めるものではない、他人や外部の環境が「(やりがいの場所を)与えてくれる」ものではない。あるいは「与えてくれない」と不満に思うものでもない。
そういう受け身の何かではなく。
「やりがいの場所」は、結局は自分の中にあるんだな、と。
というより、その本質は、自分の中から湧き上がってくる感情。
生きていることが、(いい意味で)緊張感があって、ワクワクして、素晴らしい、というようなトーン。
日常のささいな事柄にも、この抽象的な感情を入れていくことができる。
仕事でも、生活でも、趣味でも。
じつは、生きている間中、この「やりがいの場所」を感じ続けることもできる。
ということが、最近急に分かった気がしました。
それじゃ、
「大変と感じるくらいのときが、「やりがいの場所」にいる」
という話はどこに行ったかと言うと、それも間違いではないけど、今の時代、それは積極的に選ばなくてもよくなった気がするのです。
もちろん、人によってどういう経験をしたいかは異なるので、「大変」とか「苦労」とか、多少の抵抗があったほうがやりがいを感じられる、ということもあるとは思いますが。
自分の能力を精一杯発揮しなくていいとか、今の状況を変えなくてもいいということでもなく。
ただ、「今この瞬間も、それを感じつつ、同時にもっとそれを感じたいと思う」ことは矛盾がないということです
現時点(7月の終わり)で、2018年の目標について思っていることを書いてみました。
ところで、これまでの経験から言うと、夢の意図に気がついて、受け止めると、同じ夢は見なくなることが多いですね。
まあ、まだ分かりませんけど、あれ以来、同じような前の職場の夢は見なくなりました。
*
「#2.0的なもの」タグをつけたのは、これからますます多くの人が、食べるためだけに仕事をするのではなく、人それぞれの「やりがいの場所」、その、感情のトーンを求めて、仕事でもいいし、何かをするようになるんじゃないかな、と。
そうなったらいいな、という思いをこめて。
お読みいただきありがとうございました。
明日もきっとよい日です。
台風の朝、なぜか新宿でフルーツモーニング。 パンケーキが食べたかった…… |
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