内田百閒『東京焼盡』を読む。今は昭和何年くらいかな

一つの時代が終わるとき


内田百閒『東京焼盡(しょうじん)』を読みました。
読んだ理由は、「一つの社会体制が終わるときの疲弊感」ってどんな感じなのかなと思って。疲弊感、そして開放感。


敗戦直前の昭和19年11月1日から翌8月21日までの内田百閒の日記。

東京の麹町に暮らし、空襲と食べ物(特にお酒♪)の調達に頭を悩ませ続ける毎日が、飄々とした文章で綴られている。
体制への批判はほとんどないが、内田百閒はこれを「作品に代える」ものと考えて、一日も欠かさずに書き記した。


東京では、1944年11月1日に初めて本物の空襲警報が鳴ってから、ほとんど連日、どこかで火の手が上がったようです。
下町から焼かれ(11月29日神田日本橋、3月10日深川浅草等)、山の手も焼かれ(4月13日四谷牛込、同15日品川大森)、立川や川崎など郊外も焼かれ、全国津々浦々「地図の上で思い出しそうな町は大概無くなった様である。(七月二十一日)」
百閒先生は5月24日からの「仕上げの大空襲」で焼け出され、隣家の二畳の掘っ建て小屋に暮らします。

○なぜ疎開しなかったかと云ふに行く所も無かったし又逃げ出すと云ふ気持がいやだったから動かなかった
○何をするか見ていて見届けてやらうと云ふ気もあった
「序二代ヘル心覚」 ※カタカナをひらがなに変更

歴史をふり返ると、永遠に続く社会体制というものは、ないようです。

日本は最近二回、社会のしくみが変わっていますが、1945年にアメリカに占領される形で始まった戦後日本の社会システムも、2015年で70周年。システムが上手く機能し、繁栄を極めた折り返し地点はかなり前に過ぎ(バブルの頂点1989年、戦前の場合は日露戦争1904年)、今は下り坂の途中です。

大正十三年早稲田ホテルへ這い込んだ当時、川に陥ちて足の裏が川底の砂に触れる様だと考えたが、今日の日本も足の裏に川底があたる所迄沈まなければおさまらぬのであろう。水の底で砂を蹴って浮き上がる日のある事を祈念する。(七月十一日)

今回、戦後の社会システムが変わるとき、私たちの頭上に降りそそぐものがあるとしたら、それは焼夷弾ではなく、労働者の雇用条件の悪化、増税、少子高齢化による年金破綻といった、経済的な事柄になるだろうと個人的には思っています。(あくまでハードランディングの場合ですが)

八月十五日水曜日七夜。朝曇り。午(ひる)頃から晴。今朝の放送は天皇陛下が詔書を放送せられると予告した。誠に破天荒の事なり。正午少し前、上衣を羽織り家内と初めて母屋の二階に上がりてラヂオの前に座る。天皇陛下の御声は録音であったが戦争集結の詔書なり。熱涙滂沱(ぼうだ)として止まず。どう云う涙かと云うことを自分で考える事が出来ない。(八月十五日)

『東京焼盡』を読んだ感想では、いまはまだ、昭和20年ほどの地点(百閒先生いわく「川底」)には至っていないようです。そう感じましたね。9ヶ月分の日記を連続して読んでいくと、はっきり書かれてはいないのですが、昭和20年の8月に、百閒先生を含め周囲がかなり疲労困憊しているのが分かります。
戦争は、最初は政府の宣伝で華々しく、意気揚々と始まりますが、最後は疲れ果てて終わるようです。

いずれにせよ日記には「去年の夏時分食べ物がいよいよ窮屈になった当時(八月八日)」とあるので、本当に大変なのは、時代の変化が起こる前後の1年位なのかもしれません。

個人的にはそこまではまだしばらくかかる気がします(10年?15年?)。それまではナショナリズムが喧伝され、過去70年のやり方を続けるのが一番良いとされるでしょう。

しかし、江戸より明治のほうが、戦前より戦後のほうが、人々の自由は増え、社会は豊かになったので、きっとまたそうに違いない! と、楽観的な私は信じています。力を持つ人の数は時代が進むにつれ増え、テクノロジーの発達で情報は隠せなくなっていく。次に時代が変わるときは、もっと市民にパワーが移るでしょう。(そうでなければ!)

今という時代は、長い目で見ればということですが、素晴らしい時代です。

面白い日記抜き出し


百閒先生の文章は、てらいがなく正直で、鋭く的確な言葉づかいに感心します。自分を徹底的に客観化できるタイプで、それが飄々とした、おかしみのある「味」になっていると思います。

『東京焼盡』から、テーマ別に面白かった文章を抜粋しておきます。長いので、文字を読むのが大好きな人向け。全然、暗くないですよ。本当に、結構笑えるところのある日記です。



麹町五番町の、現在の番町会館のあたりに住んでいたそうです。
八月十四日、市ヶ谷の大本営で何かを燃やしていて(?)火事になっているという話も書き留めてあります。

お酒


百閒先生は最初から最後まで「酒」に執着している。

敵の飛行機は今までよりはもっと頻繁にやって来るだろう。ただ思う事は、寿命の縮まる様なこわい思いをした後で、空襲警報が解除になり、ほっとした気持で今度も無事にすんだかと思う時、お酒か麦酒(ビール)が有ったらどんなにいいだろうと云う事で、いつもそればっかり思うなり。(四月四日)

きわめつけは、後書きにもあるとおり、麹町の家が焼かれた五月二十五日の夜↓

町内や近所だけではなくどちらを見ても大変な火の手である。昨夜気分進まず飲み残した一合の酒を一升瓶の儘持ち廻った。これだけはいくら手がふさがっていても捨てて行くわけに行かない。逃げ廻る途中苦しくなるとポケットに入れて来たコップに家内についで貰って一ぱい飲んだ。土手の道ばたへ行ってからも時時飲み、朝明かるくなってからその小さなコップに一ぱい半飲んでお仕舞になった。昨夜は余りうまくなかったが残り一合はこんなにうまい酒は無いと思った。(五月二十五日、二十六日)

一升瓶を持って火の手の中を逃げ回るなんて……(どんだけ)。

食べ物


(雀を)閉め切った玄関の中を追い廻して二羽とも捕え、小鳥籠に入れた。ひねって晩には焼いて食べようと思った。可哀想だがこの頃の様にこんなに食べる物が無くなっては先ず仕方なかろうと考えた。(略)座に返って大分さめたお粥の残りを啜った。どうも急に憂鬱になった様である。何だか面白くない。泣き出しそうな気持もある。どうしたのだろうと考えたら、雀を殺して食おうと云うのが気になるのである。決してそんな殺生をしないとは云わないけれど、もっと食べる物に困れば或は更に雀を捕えて食うかも知れないが、それはその時の事として、兎に角今日はよそう。逃がしてやろうと考えた。(二月二十六日)

数年前の毎晩の御馳走を書きとめた御膳日記を出して見た。昭和十一年の書き始め也。今日の御飯にも困る今から見れば誠に隔世の感あり。(三月七日)

午の御飯にもう一度食べようとすると朝よりは臭みが一層ひどくなっている。一口たべてやめて残っている御飯を全部水で洗わした。家内と二人でその洗い流しの御飯を食べながら全くひどい事になったと感心した。洗い流しの御飯はもみ出し袋に入れるか乞食にやるものである。(略)(昔の郷里の)お梅乞食が貰って食べた物の方がこれよりはもっと上等だったなどと考えながら、洗い流しを食べた。(略)しかしそんな物を我慢して無理に食べていても腹加減悪からず。(六月八日)

東京駅惨状


大手町に出て段段郵船に近づくと向うの方から新らしい火事のにおいのする青い煙が流れて来た。辺りは昨夜焼けたと思われる所もないのに不思議だと思っていたら、和田倉門の凱旋道路に出て見ると東京駅が広い間口の前面に亙(わた)って燃えている。煉瓦の外郭はその儘あるけれど、窓からはみな煙を吐き、中には未だ赤い焔の見えるのもある。(五月二十六日)

焼けた後の東京駅の惨状は筆舌の尽くす所にあらず。廃墟は静まり落ちついている筈だが、東京駅は未だ廃墟でもない。亡びつつある途中である。乗車口に巻き上がっている埃は生ま生ましい。高い天井の跡から何か落ちて来そうで改札口を通るのもあぶない様である。(五月三十一日)

そして、戦争が終わった後の描写が美しい(東京駅ではないけど)。

電車の中の明かりが今迄より明かるい。高架線から見える焼け残った所所の建物の窓に燈火が美しくともっている。(八月十七日)

追記)『この世界の片隅に』でも、戦争が終わった後の、街の明かりの美しさが描写されていたと思う。

戦時下あれこれ


今日は又家内が二度目の勤労奉仕と云う事にて、朝から出かけたが警報鳴ればすぐ帰る。(略)町内のおかみさんや娘達に、家を取り潰した後の片附けと云うひどい労働をさせ、町会の役員という男はその傍に起(た)ちて監督している。女囚を取締る看守の如し。あきれた事が平気で行われる世の中なり。

気やくその悪い大政翼賛会が解散する事になった由。新聞記事を読みて胸のすく思いなり。その後出来た文学報国会も勿論無くなるであろう。(略)文学報国会には最初から関係せずときめて何を云って来ても返事を出した事がない。返事をすれば一つ関係を生ずるからである。(略)文士が政治の残肴(ざんこう)に鼻をすりつけて嗅ぎ回っている様な団体が無くなって見っともないめざわりが取れてせいせいした。(五月十八日)

きらいだった文学報国会がなくなると思い喜ぶ。「政治の残肴(ざんこう)」ですか……。

今日から夏服に著(き)かえる。きびら色にて真白ではないが小型機の来襲にそなえて白い物は著(き)るなと新聞などで頻りに云っているので小型機は構わぬとしても行人や電車の相客の目が五月蠅いから成るべくよそうと思ったけれど外に無いのだから止むを得ない。構わずに著(き)て歩くことにせり。当の相手の事は構わぬけれど、こちらの側の仲間の目が五月蠅いから、口が八釜敷しいから、と云う気兼ねは満州事変日支事変以来の普通の感情なり。(八月六日)

敵よりも仲間の目がうるさく、口やかましいから。

空襲


今朝は少しゆっくり寝ようかと思っていると七時警戒警報にて起こされた。(略)小型機数十機の編隊と云ったので、すぐに起きて身支度をした。敵の艦隊が近海に迫り来り、その艦載機が来襲したるならん。敵艦隊の跳梁(ちょうりゃく)を許してここに至るとは本当に思いもよらぬ事であった。(二月十六日)

今日午後の空襲にて一弾は宮内省へ落下したとの事なり。然れば即ち宮城内なり。先には伊勢の豊受大神宮の爆撃あり。どうする。どうする。(二月二十五日)

この頃は、空襲に対してもいちいち狼狽していて、ういういしい。

三月十日、東京下町の大空襲。九段の火事は百閒先生の家の近くまでせまった。

表を焼け出された人人が列になって通った。火の手で空が明かるいから、顔まではっきり見える。みんな平気な様子で話しながら歩いて行った。声も晴れやかである。東京の人間がみんな江戸ッ子と云うわけでもあるまいけれど、土地の空気でこんな時にもさらりとした気持でいられるのかと考えた。着のみ着のままだよと、可笑(おか)しそうに笑いながら行く人もあった。(三月十日)

往復の途上にて見た焼け跡は、この前の空襲の後の神田の景色とは比較にもならぬひどいものにて、大地震の時の大火以上ではないかと思う。いつかは自分の家も焼かれるかも知れないとは今迄も考えていたが、今度は近い内に必ず焼かれるものと覚悟をした。家内もその用意をしている。火事だけではなく、爆弾にていつ吹き飛ばされるか知れないけれど、死ぬ事にきめてしまっては萬事物事の順序が立たない。生死に就いては運を天にまかすとして、生きていれば必ず焼け出されるものと一応腹をきめた。(三月十日)

考えて見るに、この頃は毎朝の新聞が面白い。特にB29に関する記事は本気で読んで、こちらへ来るか来ないかの判断をする。眼光紙背に徹するの概(おもむき)がある。ラヂオがこわれて聞かれぬ所為(せい)もあるが、新聞がつまらないと云っていた時分とは読む気持が違っている。朝から寝る迄、寝てからも緊張している。(略)何年か後になって顧みれば、あの時分の生活は張りがあった、生き甲斐があったと云う事になるかも知れない。敵の空襲がこわいのと、食べ物に苦労するのと、それだけであって、あとは案外気を遣わないのんきな生活である。(三月二十八日)

眼光紙背(笑)。

朝、寝不足ながら目をさましていると、午前八時五十分警戒警報鳴る。B29一機快晴の空に四本の美しい飛行機雲を曳きて頭上を通り過ぎた。何事もなし。(四月二日)

百閒先生は法政大学の航空部長だったこともある。

こわいけれども退儀だから逃げずにこうしてじっとしていると向うからやって来て、居ながらに戦雲漠漠たる滅多に見られるものではない大変な光景を、しかもこの頃はしょっちゅう見せてくれると考えた。(四月十一日)

さすがは余裕の百閒先生。

続いて四月十三、十四日、四谷牛込大空襲。作家らしい描写です↓

丁度その時雙葉(女学校)の一番こちらの外れの一棟が焼けているところにて、その火が土手沿いの道にかぶさっている何百年かの老松の枝に移り、白い色の焔が水の伝わる様に梢から幹に流れた。(略)大きな明かるい物が、燃えながら火の手から離れて空にふわりと浮かび、宙を流れるように辷(すべ)って、往来を越して土手に落ちた。土手も燃えている。土手が燃えるかと更(あらた)めて感心した。アスファルトの往来には白光りのする綺麗な火の粉が一面に敷いたように散らかり、風の工合で吹き寄せられて一所にかたまったり、又一ぱいに広がったりしながら、きらきらと光っている。道もせに散る花びらの風情である。(四月十三、十四日)

矢っ張り、うちも焼けるものと思う。残ったと思う所も人の話を聞けば次ぎ次ぎに焼けて行く。結局は早いと遅いだけの違いになるらしい。(四月十六日)

帰りは肴町の方へ出て見たが一面の焼け跡にて(略)下の大曲から水道町や江戸川橋の方まで一目で見える。その辺りが又下の段の大きな焼野原になっているので驚いた。戦争だからこんな事もあると諦めている丈では片附かない様である。敵が憎いよりも、味方が意気地がないと嘆ずるよりも、馬鹿気た話だと思う事切なり。(四月三十日)

一杯機嫌の古日はそこで又ゆっくりして立ち話をしたり野良猫を構ったりして帰って行った。旧暦十二日の月が澄み渡り隣の軍需大臣邸の塀際の立ち樹の樹冠が夜空にはっきりと輪郭を描いている。長い列になって連なったこちらの端に私の家がある。向こうから眺めて来た目で見ると実に小さい。敵の飛行機が如何に残虐であってもこの小さな家をねらうと云う事は有るまいと家内に話した。家内はそう云えばお隣りの立ち樹一本ですものねと云った。(五月二十五日)

ちょうどその晩遅く、麹町の百閒邸は焼けた。

今夜は段段に頭の上を通る敵機の数が多くなる様であった。火焔を吐いて落ちて行くのは一つ見ただけである。焼夷弾が身近かに落ち出した。B29の大きな姿が土手の向う、四谷牛込の方からこちらへ今迄かつて見た事もない低空で飛んで来る。機体や翼の裏側が下で燃えている町の焔の色をうつし赤く染まって、いもりの腹の様である。(五月二十五、二十六日)

翌朝丸の内の郵船ビルに避難しようと歩いて行ったが、水が出ないのでまた歩いて帰ってきた。

天気が良くなったので疲れている上に暑くて弱った。歩きながら家内に、こうして痛い足を引きずってやっと家に帰って玄関を開けて帰ったよと云い、上がり口に腰を下ろして汗を拭いて一休みするその家が無くなったのは困るね、と話した。(五月二十六日)

今日は省線電車が動いている。時計を合わそうと思って四谷駅へ行って見たけれど電気時計は止まっていた。ぶらぶら歩き乍ら帰って来る途中考えて見るに、焼け出された人人がさっぱりしたさっぱりしたと云うのが頻りに新聞に出ているけれど、さっぱりしたと云う気持はその人人によって幾らか違うかも知れないと思う。しかし私は私の都合でさっぱりした事は確かである。(略)その他整理しなければならぬ片附けなければならぬと常常そう思いながらいつ迄たってもどうにもならなかった煩いを、一挙に焼き払ってしまい実にせいせいした気持である。(五月三十日)

戦争がすんで毎日正午に平和の午報が鳴る様になっても焼け出されはサイレンの音を聞くとすぐに身の廻りの荷物を表へ持ち出したくなるのではないかと思う。(六月十七日)

焼けた物を思い出して愚痴をいう奥さんには、

もともと無かった物も焼いた事にしようと私が教える。ピアノ三台、ソファ一組、電気蓄音機、合羽坂の時分から家内が欲しがったのを許さなかった電気アイロン、それから蒸籠、ミシン等、惜しい事にみんな焼いてしまった、焼けたので無くなった、もともと無かったかも知れないが有ったとしても矢っ張り同じ事である。(七月一日)

日本全国の空襲を書きとめつつ、

地図の上で思い出しそうな町は大概無くなった様である。どんな町にも感情があり由緒や歴史がある。今となっては仕方が無い事かも知れないが何人(だれ)がこんな事にしたかと考える。新聞の御用記事ではいろんな事を云うけれど決して国民の所為(せい)ではない。(七月二十一日)

久しぶりに四谷見附から日比谷の市内電車に乗り、辺りの焼け跡を今更ながらつくづく眺めて余りの荒涼たる景色に胸の中が気持が悪くなった。生理的の不快を感じた。(七月二十日)

五月二十五日の夜から既に二ヶ月になんなんとす。地上の焔に照らし出されたB29の姿を見上げて、今度のはこっちへ来る、いや大丈夫だ、ああ向いたら心配はない、今度のも大丈夫だ、こう云う風に見上げて真上に見えても余程横にそれていると云う様な事をそれ迄に何十遍何百遍云ったり思ったりしたか知れない。二十五日の晩も初めの内はその通りの情況であったが、(略)
敵機を見上げて自分の身辺に危険が迫った事は十分解っているのであるが一方ではこれは実に大変な事であると云う事を一つの壮大な出来事として観察していると云う様なところもあった。しかし大胆に落ちついてそんな事を考えたのではない。こわい事はこわかった。(七月二十二日)

そろそろ疲労がたまっている。

そして、八月十五日が来た(この記事上部の引用)。

八月十六日木曜日八夜。今日辺りから日本の新しき日が始まると思う。そのつもりにて昨日の欄と今日の欄の間をあけた。(八月十六日)

ずっと読んできて、この「一行あき」を見たときには感慨がありました。

(なお、焔=本来の漢字は「燄」です)

この先、どんな時代の変化があっても、冷静で客観的な気持を持ち続けたいものです。

いや、まあ、百閒先生の借金生活は、良い子は真似しちゃいけませんが。

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